猫屋春子はかく語りき

CAT AND SPRING

それは誰も傷つけない方法なのかもしれないけど

現在、手術をした母の退院に合わせて実家に帰省している。手術はとりあえず終わり、帰宅後の母は自分のできることから日々の暮らしを再開している感じだ。

それはまあ良いとして、実家にいると70を超えた父による韓国批判がとにかく凄い。「韓国がー」と一日中批判をしている勢いだ。そして安倍政権やトランプをやたらに持ち上げる。母も父の機嫌を損ねないよう、父に合わせて韓国批判を行う。

私自身は、とくに韓国が好きではないが、同様に嫌いでもない。在日ではないし、とくに韓国や北朝鮮に強い思い入れがない。だけど、毎日韓国の批判を聴かされていたら、ちょっとずつ心は萎える。別に韓国を擁護したいとか、そんな気持ちにはならないけれど、例えば特に思い入れの無い誰かのことでも、その人の悪口を毎日聴かされれば、なんとなく嫌~な気持ちになってくる。その感じによく似ている。

そのように、父の韓国批判については食傷気味なので、批判が始まったら早々に話題を変える。さきほどはLGBTの批判もおっぱじめそうだったから、「別にいいんじゃない」でなんとなくかわした。こんな日々がまだ2週間も続くと思ったら、ややうんざりしないでもない。

ただ、父の韓国批判のような手法は、どこにでも見られることではある。内部に直接関係のない外部に仮想敵を設定し、内部の連帯感を高める。もしくは仮想敵の批判を行うことで内部に溜まったストレスのはけ口とする。これは学校や職場の集団でもよく見られる現象だし、集団をまとめるのに手っ取り早い方法のため採用されやすい。そして、おそらくこの手法の最大のメリットは、次の点にある。

それは、誰も傷つけないということ。

内部に直接関係のない外部のことだから、批判しても内部の人間が大きく傷つくことはない。外部にその批判内容が漏れれば、外部の人が傷つく恐れはあるが、実家で批判している分には漏れる可能性はかなり低い。そして批判や悪口を言うことで、ストレスが発散される。(私はされないタイプだが)

ただ、手っ取り早いし、誰も傷つけない方法だと思う反面、70歳を超えて韓国批判を繰り返している父を見ていると、なんだか父が可愛そうになる。なにか、こう、いろいろ考えてしまうのだ。なんとなく胸がモヤモヤする。韓国批判をこれ以上聴きたくないという気持ちだけではなく、なんというか、人間の確実なる「老い」を目の当たりにしているというか。年々、父の頭が固くなっているのを感じる、そのことが悲しいと言えばそうなのかもしれない。

ここで私が「多様性」や「ダイバーシティ」の話を持ち出しても、父は受け入れないだろう。受け入れることはできないだろうし、受け入れたくもないと思う。

年をとって、両親や兄弟、親戚などが亡くなって、自分の周囲からいろいろなものが消えて、楽しみも失って。きっとそんな不安な時に出会ったのが韓国批判なのかもしれない。韓国批判はおそらく、今の父を支える生きがいにさえなっているのではないか。韓国批判をしている時だけは、彼の脳内にドーパミンが溢れ出るのかもしれない。そして私に、それを批判する気持ちはない。ただ、老いて韓国批判をするのは勘弁だなあと思うだけである。