猫屋春子はかく語りき

CAT AND SPRING

完璧主義には2つある

 


B'z/さまよえる蒼い弾丸-ROCK IN JAPAN 2017-

私はその昔、ある人に「完璧主義だよね」と言ったことがある。しかし多分、その人は私が言った完璧主義の内容を理解していない。もう何年も前のことだけど、正確に伝わらなかった私の「完璧主義」発言にこめられた意図が、おそらく今でも宙に浮いたままなんだろうなと思うことがある。

一般に、「完璧主義」と言うと「物事を完璧にやり遂げたい人」のことを指す。本来の「完璧主義」の意味はそれで、古くからその意味で使われてきただろう。しかし、私は「完璧主義」にはもう1つの意味があると思っている。

それは「何もしないから完璧でいられる完璧主義」である。これわかるかな。

「物事を完璧にやり遂げたい」完璧主義者は、完璧に物事をやり遂げるためにいろいろな傷を負うし、やり遂げる前に挫折するかもしれないリスクを負う。しかし「何もしないから完璧でいられる完璧主義者」は、何もしない状態=リスクを負わない状態=自分は傷つかないという立場を守り、自分自身の完璧さを守る。

もっと言うと自分の頭の中にある完璧な自分像を守る。だから何もしない。何かするとその理想の自分像が傷つくし、挫折のリスクを負ってしまう。だから何もしないし、あるいは自分のタスクなのに大事なところは全部他人まかせにして、致命的な痛手を負わぬよう自分を守る。そうしてタスクの進展度は全て自分のものにする。自分がやったということにする。当たり前だ。タスクのオーサーにはその人の名前だけが書かれるのだから。そうして彼/彼女は自分の頭の中にある完璧な自分に傷がつかないよう守る。これが「何もしないから完璧でいられる完璧主義」の内容である。

完璧な自分でいたいのはわかるし、挫折したくないのもわかる。理解できないことではない。でも、私はそういう人間が嫌いだ。仮に頭の中にある完璧な自分像が傷ついても挫折しても、私は「やり遂げる完璧主義」を支持する。何故なら私は人間って死ぬまで成長することができる生物だと思っているから。傷つかず、挫折せず、成長するなんてことはありえるだろうか?

とはいえ、「何もしないから完璧でいられる完璧主義」者たちがこの世には大勢いるのも知っている。そういう人たちはそういう人たちなんだろう。その人たちの目的は、行動を通じて成長することではなく、頭の中にある完璧な自分像を増長させていくことにある。周囲の他人の手を煩わせながら、自分は痛手を負わず、完璧に物事をやり遂げる(ように見せかける)。そしてその成果は全て自分のものにする。そうして頭の中の自分像はますます増長していく。

きっと、私の「完璧主義」発言の対象となったあの人は、今もますます頭の中の完璧な自分像を増長させているだろう。「自分はすごい」「自分は有能だ」。コネをたくさん使い、上の人にはへこへこして私的な手伝いには常に参加する。私はアナタの言うことならなんでも聞きますといった従順な態度で接する。一方、自分の下部だと認定した人間の手を煩わせ、本来ならば自分1人で仕上げなければならないタスクを完成させる。そして周囲には、あたかも1人でやったように振る舞う。上の人にとっては従順なペットだ。自分が可愛がっているペットの成果は喜ばしいものだろう。上の人はその成果に見合う立場を与え、権力を握らせる。「よくやった、よくやった」と。そうして握った権力を眺めながら、あの人は「私はなんて能力のある賢い人間なのだ」と思っているに違いない。

まあ、それも能力のある賢い人間の1タイプなのかもしれないな。生き方の違いってことも頭では理解できるよ。

でも、私、嫌いなんだよ、そういうの。これが生理的嫌悪感なのだとしたら、そうかもしれない。誰のyesマンにもなりたくないし、自分1人の力では勝ち取れない権力を握ることにも疑問がある。多分、あの人と同じようなことをしたら、逆に私にとっては致命的な傷になる。これは多分、私という自我の問題ではなく、魂の問題なのかもしれない。自分が嫌がっていることを、自分に対してしてはいけない。きっと何かが損なわれるから。