猫屋春子はかく語りき

CAT AND SPRING

実体験を基にした思想はぶれない

前回、自民党に所属する杉田水脈さんの発言を取り上げて、あーだこーだブログで述べた。その中で相模原の障がい者施設で殺傷事件を起こした植松被告を引き合いに出したが、先日その植松被告について以下のニュースを読んだ。

news.livedoor.com
私は植松被告のやったことは決して支持しないし、当然されるべきでないと思う。でも、殺人しといて後で謝罪して許してもらおうとする、わけのわからん輩より、全然肝が据わっている。人を殺すということへの覚悟を感じるし、自分の考えは間違いではないという強い信念も感じる。

その信念がぶれないのはたぶん、ネットや本やテレビなどの外部からの情報により知的障がい者の人々に対する思想を構築したのではなく、自分自身が体験した日々の積み重ねの中から構築した思想だからだ。一朝一夕に構築したものではない。労働における彼の苦労や苦悩を費やして出来上がった、体で会得した「実感」なのである。だから、ぶれない。その体験をしたのは自分しかいないのだから。だから100人が、1000人が、「お前の思想は間違っている」と彼に言ったとしても、彼は自分の思想を曲げないだろう。

「俺の思想が間違っている?じゃあ、お前は俺と全く同じ体験をしたことはあるか?あるいは俺と同じ体験を、これから体験する覚悟はあるか?そしてそれを体験して、俺と同じようなことは絶対しないと言い切れるか?」

殺人は良くないことだ。誰にも誰かの命を奪う権利なんてない。でもそうした権利や倫理が無になってしまう沸点にまで人間の感情や衝動が到達してしまったら。また、それを後押しする思想が、実体験の中で日々構築されていってしまったら。

日々の体験は時間の中にある。つまりそれは自分の人生の一部だ。他の誰でもない自分が自分の人生をかけて体験したことは、極論すると自分でしかありえない。だから自分ではない多くの人が何と言ったって信念はぶれない。彼らは自分ではないのだから。もし、植松被告が今後ぶれるとしたら、彼自身が別の体験をすることにより新たな思想を再び獲得した時でしかないだろう。でも彼は今、獄中にいる。体験を更新する術はもう無いに等しい。