猫屋春子はかく語りき

CAT AND SPRING

ポジティブとかネガティブとか


Aretha Franklin - Think (The Blues Brothers Version)

もう、最近ではポジティブとかネガティブとかいうことが議論にならないくらい、ポジティブかつ空気を読んだ発言が言葉が飛び交っている。ネガティブな人はいずこへ?というくらい、暗い人やネガティブ発言をする人を見なくなった。その中で、かろうじて暗い人であることを私は保っている。人の輪に入れば、極力ネガティブ発言は避け、周りを忖度(※嫌な言葉だよな)したことを言うようにするのだけど、実際、そんな自分に反吐が出るし、そういう他人を見て反吐が出る以前に悪い意味で感情が動かなくなった。他人の気持ちを慮るのは悪いことじゃないし、博愛的な優しさが嫌いなわけではない。ただ、おかしいなと思うのは、こんなに周りを忖度するような、慮るような言葉が飛び交っているのに、社会から人間的な優しさや愛情が次第に感じられなくなっていることである。もしかすると、私だけが感じられないのか?私自身の問題か?そうかもしれない。でも、どうも表面的なポジティブ、表面的な優しさが跋扈しているように感じられるのだ。何故だ、何故だろう。「表面的?何が悪い?」って声が聞こえそうだが、それはまるで「偽善?何が悪い。偽善だって善のうちだろ」という発言と変わらないような気がする。たしかに偽善だって善だ、表面的な優しさだって優しさだ、表面的なポジティブだってポジティブだ。だけど、何かが違うと思うのは何故だろう。その言動はまるで、もう誰も自分のことを他人のことを深く知ろう、理解しようとしていないように私には見えるのかもしれない。自分や他人を深く考えることなしには、善や優しさを発動することの難しさもわからないのではないか。善や優しさやポジティブは掛け値なしに良いものか、誰にとってもそれらは同価値を持つものか。誰かにとっては迷惑でしかないことがあるのではないか。それは「個人」を見失っていることを指しているのではないか。「個人」を見失うとはどういうことか。考えることを止める、諦めるということと同義語なのではないか。