猫屋春子はかく語りき

CAT AND SPRING

アップルパイの午後


Fiona Apple - "Across The Universe"

もう旬が過ぎたせいだろう、スタバのアップルパイが店頭からなくなり、クリスマススイーツらしきものが並べられるようになった。アップルパイは、旬だけの期間限定販売なのだろうが、通年販売してくれることを希望する。スタバと言えばアップルパイ、アップルパイと言えばスタバ。あのアップルパイと、ホットのカフェミストを注文し、ふかふかのソファーに座って食す幸せ。やっすい幸せだが、この1年で一番の幸せを感じる瞬間であった。ちなみに『アップルパイの午後』は尾崎翠が書いた短編の1タイトルである。小説のような戯曲のような作品だ。『尾崎翠短編集』は自宅に2冊ある。以前購入したことをすっかり忘れて、もう1冊購入したからである。読書好きでなければ、その名前すら聞いたことはないかもしれないが、私は尾崎翠の小説が大好きだ。

尾崎翠を好きになったのは、群ようこがきっかけであった。群ようこの『鞄に本だけつめこんで』というエッセイがあるのだが、たしかそこで紹介されていた、というか、群さんが「とても好きな本」として取りあげていた。蛇足だが、『鞄に本だけつめこんで』もまた傑作である。作家である群さんの本に対する愛情が、ビンビンに伝わってくる。作家で本が大好きだからこそ書くことができる、本好きによる本好きのためのエッセイである。だから、上から目線で分析や考察を行うなんてことはしないし、小難しい理屈をこねたりもしない。素敵な作品である。

『鞄に本だけつめこんで』の中で、群さんは、尾崎翠の『第七官界彷徨』という小説についていろいろ書いており、その作品に対するご自身の愛情を淡々と語ってらした。群さんが大好きだった私は、そこで尾崎翠の作品に興味を持つようになった。群さんが絶賛していた『第七官界~』は、今までに読んだことのない小説だった。これまで、いろいろな本を読んできたけれど、あの世界観を他に感じたことは正直ない。今でも思い出すことができる、あの世界の空気や匂い、手触り。『第七官界~』以外にも尾崎作品はいろいろ読んだけれど、やはりどれも独特の世界観が存在していた。その中でも『第七官界~』の世界観は、ひどく際立っていた。こう言うと、安易に伝わってしまう可能性もあるが、尾崎作品は小津映画の世界観に似ていると思う。尾崎の作品も、小津の作品も、作り手に合わせた目線ではなく、その世界に存在する人々の目線に合わせた描き方をする。そこには「作り手はその世界にお邪魔するだけ」という、実に謙虚な姿勢を見て取ることができる。

アップルパイの午後には柔らかい風が吹いている。優しい日差しが人々の影を地に落とす。風に吹かれて紅茶は次第に冷めていく。秋が終わり冬が来る。踏みつぶされた銀杏が路地に転がって嫌な臭いを発している。