私は貴方が思うような私じゃない
外見と中身のギャップが激しいせいか、
幼い頃から、周りに誤解されて生きてきて、
気がついたら、「正しく理解されたことのない人間」になっていた。
途中までは、ギャップが激しいことを自分自身でどうにかしようと、
人づきあいにおいて結構努力としていたと思う。
しかし、大学生になった頃から、そういうことをするのが酷く面倒くさくなり、
他人の言うがまま、言われるがままになってきた。
現在に至っては、まー、私に対する誤解だらけだ。
誤解が誤解を招きに招いて、
「こういうこと考えてるんでしょ」とか、「こういう人だもんね」とか、
私に対する想像は、相当悪意に満ちたものとなり(人相が悪いので)、
それを聴いて、正直ビックリしながら、
しかし、それを訂正するのも面倒くさく思い、
相手の誤解を黙認する、あるいは、「あー、そうなんだよねー」と答える私。
(内心、ビックリして呆れているんだけども)
そんなこんなで、アラフォーになった今、
結婚相手や親にすら正しく理解されていない事態を招いている。
いや、「正しい理解」ってそもそも何ですか、と聞かれれば、
「何ですかね?それ」って答えちゃいそうだけど、
ただ、周りの人が、勝手に構築する私像と、本当の私像が、
あまりにかけ離れているのは、自分自身でわかるのです。
だって、考えてもいないようなこと、言われるんだもの。
私の中に、その要素がないものについて、言われるんだもの。
人相が悪い(=ブス)って、人生ウルトラハードだなと思う。
で、何故、こんな話、するのかと言えば、
さきほどね、アウンサン=スーチーさんのことを考えていたのです。
スーチーさんって、暗殺された、あの「アウンサンの娘」ってだけで、
周りに、かつがれているように見えるんですよね。
アウンサンと言えば1940年代、ビルマ独立の際、
少数民族を治めるのに尽力し、非常に信頼を得ていた人物だったわけですが、
「アウンサンの娘」だからって、アウンサンと同じではないだろうし、
でも、娘だから後継者だろう、と考える人々の間では、
スーチー像が独り歩きしている、そんな印象を受けるのです。
だから、ロヒンギャ問題への今回の対応は、今まで構築されてきた、
みんなの中の「スーチー像」をぶっ壊すのに、最適ではないか、
とすら思います。
そう考えるのは意地悪なのかなあ。
でも、そういう作り上げられた「スーチー像」の中で人生を送るのは、
非常に不幸なことのようにも思うんだけど。
ノーベル平和賞受賞者ではなく、一人の人間として生きたいのは
普通も人も、政治家も、あまり変わんない気がする。
でも、私がこんなことを考えているのも、
まったく、スーチーさんに対する大きな誤解かもしれない。
岡本太郎は言った、「誤解される人の姿は美しい」