猫屋春子はかく語りき

CAT AND SPRING

恋とは自己の存在を問うもの

 


John Lennon - Love

ちょっと遠いところから帰国して、
録画しておいた「フランケンシュタインの恋」5~最終話までを観た。

あまり放映時は芳しくない評価で終わったのかな?
でも、私みたいに「このドラマが好きだ!」っていう人も
結構多かったのではないかね。

もう、観ている間、涙が止まらず、ずっと泣いていた。
まったく他人事とは思えない。
フランケンシュタイン津軽さんのことはもちろん、
天草や稲庭先輩のことも。
製作側は泣かせようとして、このドラマを作ったんじゃないだろうけど、
出るものはしかたない、目から水が出て出て仕方なかったのだ。

ドラマの話自体は陳腐である。
森の中にいた得体の知れない存在が、娑婆に出てきて、
いろんな出来事を起こし、そこにいる人間たちを巻き込む。
物語だけ追っていけば、確かにそれほど面白くドラマでもないのかもしれない。

でも、この黒い現代社会にあって、黒いドラマばかり多かったところに、
久しぶりに(カルテットもそうだったけど)、爽やかなドラマを見た。
あと、それぞれ人物の動く動悸が、目先の利益や権利欲ではなく、
このドラマのテーマが「恋」というところに、猛烈に心をつかまれてしまった。

この「恋」は、誰かを好きになることでもいいし、
何か物を好きになることでもいい。対象は人間とは限らない。
「それが好きなんだ!」という気持ちを中心として動いていく物事。
深志研さんであれば、「津軽さんのことが好きだ」という気持ちを中心に、
どんどん動いていく。
いろんな人のいろんな「恋」。
そして、人間を動かす原動力になる「恋」は、
その対象のために動いているようで、それだけではなく、
自分自身を問うものとなっていたような気がする。

自分はどれだけその対象と向き合えているか。
向き合えるだけの力や器は自分にあるのか。
その責任は自分にとれるのか。
誠実に向き合うってどういうことなんだ。
稲庭先輩が、研さんのことをラジオ局にリークしたと正直に告白したとき、
天草が、ラジオ局側の言いなりにならず、研さんの独白に誠実に答えたとき、
「恋」するということは、自分自身と向き合うことなんだなと思った。

恋は、私はいまだによくわからない。
恋をすると、ノーコントロールになってしまうが、
これが感情なのか、状態なのか、衝動なのか、
その全部なのか、ちょっとわからない。
ただ、恋をすると、確実に事故ってしまうので、
かなり慎重な私は、恋をしないように頑張ってきた。
それくらい扱いに困る。
できれば恋はしたくない。

そういえば、ラジオ番組を首になった天草が、
ラジオ局をあとにしようとしたとき、
1人の男性スタッフが駆け寄ってきて、こんな会話を交わしている。

スタッフ(以下、ス)「だけど不思議ですよね。同じ怪物でも人によって毒になったり、薬になったりするんですから。」
天草(以下、天)「まあ、俺たちの心がつくりだしたにすぎないからね、怪物も、ラジオも」
ス「怖いけど、やっぱり面白いですよ・・・それじゃあ、お元気で」
天「うしちゃんも」

7月からは「ごめん、愛してる」に期待大。