猫屋春子はかく語りき

CAT AND SPRING

強い記憶、弱い記憶

最近、保坂和志の『未明の闘争』をずっと読んでいる。

面白い。文句無しに面白いと思う。

しかし、保坂和志ばかり読んでいると、

他の作家さんの作品がなんとも陳腐に思えてしまう。

それだけ保坂作品は面白いということなんだけど、

 

(もし、これから『未明の闘争』を読もうとされている方は、

その前に同著者による『遠い触覚』を読み置くことをおススメします。

そして、リンチの「インランド・エンパイア」という映画も観ておくと、

より、『未明の闘争』を楽しむことができると思います。)

 

読んでいて、記憶の強弱について少し考えるようになった。

印象的な出来事は強い記憶として長時間、鮮やかに覚えているのに対し、

日常の何でもない出来事は弱い記憶として、記憶にも残らない。

でも、弱い記憶も強い記憶とともに、存在するし、

かつて、確かに存在した日々の出来事である。

 

自分にとっての悪い出来事は、強烈な印象として残り、

さらに悪いことにはトラウマとなって、その人の一生を左右しかねない。

我々はそれを強い記憶として、長時間覚えているし、

事あるごとに反芻し、反芻するほどに強くて長い記憶となってしまう。

悪い出来事の記憶は、だから、記憶にも残りやすい。

 

しかし、その出来事がおきた周辺のことや、周辺の人、

その出来事前後の日常生活といった弱い記憶を掘りかえすと、

悪い出来事の記憶もまた、記憶の全体の一部でしかなく、

私が一生をかけて紡ぎあげる記憶においても些末なものでしかない。

また、重要なのは、そうした悪い出来事の記憶などよりも、

もっと強く長く覚えておくべき人生にとっての大切な記憶が、

ほかにもたくさんあるということだ。

 

悪い出来事の記憶に、人は振り回される。

そして、何も起きていない現在において、

その出来事を思い出しては悪感情を生む。

悪い出来事、悪感情は強く自分に作用する。

強く作用するがゆえに、それは刺激となり、嗜癖となりやすい。

悪い出来事を反芻して思い出す背景には、

刺激や嗜癖の問題も存在するように私は思う。

それは良くも悪くも、依存性が高いのではないか。

 

しかし、私達の人生や記憶は、

強く、印象に残るような出来事よりも、

記憶にも残らないような時間や記憶を大半として構成される。

そうした、刺激にもならず、嗜癖すら呼び起こさない出来事のなかに、

本当は記憶しておくのが良いものが、存在するのではないかと思うのだ。

すれ違った誰かの笑顔や、いつもの学食で買うパンの美味さや、

ゼミの友達との楽しい会話や、路面電車でバイト先へ行く途中の美しい景色や。

そういった、明日には忘れてしまうかもしれない、

どーでも良くて、でも、本当はどーでも良くない時間の記憶の方が、

自分に良くない感情を抱かせてしまう強くて悪い記憶なんかより、

本当は、ずっと大切なものなのではないか。

 

1つの悪い出来事の記憶に、人生の大切な時間を無駄にしないこと。

1つの悪い出来事は、記憶の全体における一部であり、些末でしかないこと。

 自分にとって人生とは、記憶とは、その全体とは。

そして、小説は、

1つの印象的な出来事や、

印象的な人物を中心に書けば良いというものでは、やはり無い。

 

読み途中であるが、

『未明の闘争』は面白いので、多くの人に読んで欲しい。心から。

 

未明の闘争(上) (講談社文庫)