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猫屋春子はかく語りき

CAT AND SPRING

美学の消えた社会

あらかじめ言っておくと

私はベッキーなるタレントが好きではない。

彼女に何かされたという直接的な被害は無いが、

ベッキーに限らず、いつも元気で明るいヤツを、

基本的に私は信用しないというだけのことである。

 

そのベッキーなるタレントであるが、

最近、既婚者である男性ミュージシャンと関係を持ち、

週刊誌にスクープされ、何かとネット界隈を賑わせているようだ。

 

ようだと言うのは、ネット界隈の範囲を特定することは難しく、

全体としてどれほどの賑わいであるかを定量化できないからである。

ただ、なんとなく賑わっている様子が見受けられるということである。

そして、そのタレントがテレビに映れば、

1時間に1000本ものクレームがテレビ局に来るという。

 

既婚者と恋愛なんて、当然良くないことである。

それは世間では「不倫」と称される。

つまり、倫理を逸脱しているということである。

ベッキーなるタレントは倫理を逸脱し、人の道に反した。

 

そして、その出来事は我々のゲスで俗な野次馬根性に火をつけた。

ベッキーなるタレントの話ではなくとも、

不倫なんて人の道を逸脱した行為は、

人の興味を存分にひく話のネタとして十分だ。

しかし、それはあくまでも話のネタであり、

それを聴く我々の生活や人生には一切関係はないし、

その話を聴いたところで不倫の当事者たちから被害を受けることもない。

被害を受けるどころか、

逆にゲスで俗な野次馬根性を刺激してくれるわけで、

それにより私達は楽しんでいる。

 

楽しんでいるというのに、

その楽しんでいるゲスで俗な自分の気持ちは罰することなく、

不倫の当事者を罰し、非難する。

本来ならば、我々は感謝すべきだろう。

ベッキーなるタレントの不倫話により

多くの一般人は盛り上がることができるのだから。

 

ベッキーの、あの記事、見た?」

「見た見たー、ひどくない?奥さんいるのに不倫とか」

「やばいよね、ベッキー、もう引退じゃない?」

 

これで10分は軽く盛り上がれること間違いナシのはずだ。

なのに、話題提供者であるベッキーに、人々から一切の感謝はない。

その理由は、ベッキーなるタレントは、

不倫をし、人の道を逸脱した悪者だからだ。

 

この社会では、

悪者はみんなで非難しても良いことになっているらしい。

その悪者と一切面識のない人間であっても、だ。

むしろ面識がないからこそ、思い切り非難できるのかもしれない。

だって、ソイツは人の道にはずれた悪者なのだ。

悪者について悪口を言えば、正義をふりかざせる。

この社会では。

 

あなたは正義のヒーロー、もしくはヒロインだ。

それは何故なら、悪者がいてくれるからだ。

悪者がいてくれるからこそ、正義をふりかざし、

良い気持ちになることができる。

ヒーロー、ヒロインになれる。

「私はアナタとは違って清廉潔白な人間である」

という優越感、肯定感を持つことができる。

 

ベッキーなるタレントが好きではないことは前述の通りだが、

私はそうした正義をふりかざす人間もまた、好きではない。

優越感、肯定感、承認欲求。

悪者を非難するのはそれらが欲しいがための、

どうも周囲へのアピール的パフォーマンスにしか思えないのである。

周囲を巻き込んでいる時点でそう思う。

 

小学校や中学校によくいた女子を思い出す。

誰かを嫌いになると、その子の悪口を周りに吹聴して、

その子をハブにするように仕向ける女子。

ソイツのやっていることと、そんなの同じではないか。

 

非難したいのなら、一人、心の中で非難すれば良いのである。

たしなみとはそういうものではないか。

美学がある人間なら、きっとそうする。

なぜなら、自分の行動や発言が、

他人にどのような影響を与えるのかを、

客観的に考えることができるからだ。

 

しかし、おそらく、いまの日本の社会にはもう、

そのような美学はないのかもしれない。

 

ビックリするよね、テレビ局にクレームとか。

観たくないなら、自分がチャンネル変えればいいじゃん。

そういうヤツに限って、

他人を変えるよりも、まずは自分が変わらなければいけないとか、

誰かに説教たれてんじゃないのか。

そういうの、恥ずかしいと思わないのかね。

 

不倫は良くないことだけど、

良くないことをした人を非難して良いという免罪符は、

実はどこにもないんだよ。

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